|
今週のレポーターは
|
 |
|
|
|
エディット・ピアフ
Edith Piaf
偉大なシャンソン歌手
|
日本でシャンソンって言ったらフランスの歌を指しますが、フランスでは単に「歌」という意味。そのシャンソン歌手の代名詞とも言われているのが今週取り上げるエディット・ピアフ
(1915年12月19日 - 1963年10月11日)です。
日本ではエディット・ピアフという人物はあまり馴染みがありませんが、名前を
知らなくても、彼女が歌っていた「人生はバラ色」、「愛の讃歌」は、今でもどこかで かかっているほど名曲中の名曲。エディット・ピアフは世界的なシャンソンのトップスターなんです。
そんなエディット・ピアフの映画、「エディット・ピアフ 愛の讃歌」が9月29日から公開されていますので、それにちなみエディット・ピアフの足跡をパリからレポートしましょう。
 |
 |
 |
|
ずっと先にはエッフェル塔が見えるべルヴィル。
|
ベルヴィル通り72番地でエディット・ピアフが生まれました。
|
石碑にエディット・ピアフの名が刻まれています。
|
エディット・ピアフは、パリのベルヴィルの生まれ。ベルヴィルって言うと、その当時から移民の街
(=貧乏な地域)として知られており、今では第二の中華街、中国語の看板だらけの地域です。
父は劇場で演技をしたこともある大道芸人、母はカフェのシンガーという、いわばその日暮らしの両親のもとで大きくなりました。
幼い頃エディット・ピアフは、ノルマンディーで売春宿を営んでいた父方祖母の元に連れて行かれました。彼女は、3歳から視力を失いますが7歳で回復。9歳の時から父と一緒に路上で歌いますが、彼女が歌うといつも数倍のお金が集まったようです。
そこで彼女は、彼女の歌が人の心を動かすことに気づき、15歳の時、酒癖の悪い父のもとから離れるために家を出る決意をします。
 |
 |
 |
|
エディット・ピアフ博物館の入館は要予約。現在は改装中。
|
ルーブル美術館すぐ横にあるコメディー・フランセーズ。
|
エディット・ピアフはここで歌を歌っていました。
|
当時パリでは無許可で路上で歌うことが禁止されていましたので、何度も警察に捕まりながらも、路上での歌を止めなかったエディット・ピアフに転機が訪れたのが1935年、彼女が20歳の時です。
いつもの通り、凱旋門のあたりで歌っていたところ、ナイトクラブのオーナー、ルイ・ルプレーに
声をかけられ、彼のお店に歌手として雇われることになります。
エディットは142cmと小柄だったことから、ルイは彼女に後の彼女の芸名となる
「小さなすずめ:La Mome Piaf(ラ・モーム・ピアフ)」と名づけました。 (ちなみに彼女の映画は、フランスでは「La
Mome」がタイトルになっています。)
 |
 |
 |
|
世界的に有名なナイトクラブ、ムーラン・ルージュ。
|
ムーラン・ルージュではフレンチ・カンカンのイメージが強いですが・・・
|
エディット・ピアフは、ここにも出演していました。
|
1940年6月14日、ナチス・ドイツがパリを占領、フランスはドイツの占領下に置かれることとなり、彼女はいやいやながらもナチス主催のパーティーで歌ったり、捕虜収容所でフランス人のために歌ったりもしたようです。
反骨精神のある彼女はナチスに反抗し、慰問先にいたフランス人捕虜達をバンドのメンバーに紛れ込ませて脱走させたりということを繰り返していたそうです。
 |
 |
 |
|
ポルト・ド・モントイユ(Porte de Montreuil)駅(9番線)すぐ上にあるエディット・ピアフ広場。
|
ここには彼女の銅像があります。
|
ジャン・コクトーがエディット・ピアフに残した言葉が書かれています。
|
1944年、エディット・ピアフがムーラン・ルージュに出演中、イブ・モンタン
(後に「枯葉」を世界中に大ヒットさせたシャンソン歌手)が弟子入りし、二人は恋に落ちます。 イブ・モンタンとの恋から、彼女の代表曲のひとつである「人生はバラ色」が生まれたといわれています。
その後、彼女はヨーロッパ、アメリカ合衆国、南アメリカで公演旅行をしましたが、特にアメリカでは
大人気。「エド・サリバン・ショー」にも8回出演しました。
彼女はこの頃、妻子持ちであった元世界ミドル級チャンピオン「マルセル・セルダン」と恋に落ちます。しかし、マルセルは、彼女のニューヨーク公演を見に行くために乗った飛行機が不運にも墜落し死亡。1年も経たないうちに二人の関係に突然終止符を打つことになった彼女は、立ち直れないほどのショックを受けます。
人生の中で最愛ながらも、妻子ある男性との恋に幕を下ろそうとマルセルが死亡する前から作っていた
「愛の讃歌」が、その後、大ヒット。かの名曲はこの事故が生んだ彼女の魂の叫びだったのですね。
 |
 |
 |
|
広場のすぐ横にある”バー・エディット・ピアフ”。店内はエディット・ピアフの写真が多数飾られています。
|
ペール・ラシェーズ墓地(作曲家ショパンや著名人のお墓があることで知られています)にエディット・ピアフのお墓があります。
|
今でも世界中から彼女のお墓を訪れる人が絶えません。
|
1963年10月10日、47歳の若さでエディット・ピアフは癌で死亡しました。シャルル・アズナブールは、第二次世界大戦後パリの交通が完全にストップしたのはピアフの葬儀の時だけだったと言ったほど多くの人が彼女の死を追悼、葬儀に参加した人は何と4万人といわれています。
今でも彼女のお墓には世界中の人々が訪れています。パリのストリートから生まれた世界のトップスターは、亡くなった後も音楽を通して多くの人たちの心の中で生きつづけているのです。
関連リンク http://www.piaf.jp/
|